演出メモ

創作についていろいろ書いてみようと思います。

プレビュー公演を終えて(10/24)

プレビュー公演が終わって2週間たった。

早稲田大学の協力があって行えたこの公演は、とても大きかった。
まずなによりも俳優にとって、多くの人の前で、与えられたセリフと役割を試すことが(この表現が適切かはわからないけど)できたこと。それを演出として見れたこと。

稽古場ではもちろん、さまざまなことを予想して練習する。観客がいると思ってみんな練習、している。練習のための練習にならないように気をつけている。
でもそれらのいくつかは本番初日に裏切られてしまうことも事実で、俳優は生身の人間だから、例えば観客のまえで緊張してそれがどういうふうに舞台上で影響するのかということは、いくら経験豊富な俳優であっても、わからないことがある。
俳優は生身の人間だから、その日の体のコンディションや気分、観客その他に左右されることは、みんなわかっている。いろんなことを予想して用意して本番に臨む。でも何かがそれを裏切る。

だからとにかく大きかった。過去形で言っているが、ようするにいまはそれを元にリハーサルをしている。

もちろんそれには矛盾というか落とし穴があって、けっきょく上で言っていること〔稽古場で意識していること〕は、その場にならないとわからないということだし、なのに、〔一回やっているから〕みたいな妙な安心感や、〔こうやればこうなる〕みたいな方程式のようなものを得た気分になってしまわないように気をつける必要がある。
それにいろんな状況や予想できるイレギュラー(この言葉も矛盾があるが)ばかりを考えて練習しても、それはネガティブな、いかにうまく転ぶかみたいな練習であって、発展性のないことだ。あんまりやってて面白くない。

だから先のプレビューの経験を元に、それをうまく忘れる作業もいまやっている。この作業はとても重要だ。

僕は俳優は(もしくは人間は)多かれ少なかれ〔人前で〕何かをしたいのだと思っているから、俳優をいわゆるコマとして見ることができない。観客前でも稽古場でも、まったく同じことができてしまう人を俳優とは思わない。
同時に観客前と稽古場で、まったく違うことをやろうとする人も俳優とは思わない(だから僕には俳優は無理)。
俳優は、観客前でも稽古場でも、まったく同じことをやろうとして、でもちょっとどうしても同じじゃないことも出てきてしまうよ、という人だと思う。
でもそれは、そうだと意識してしまった途端に難しくなる。〔どうしても〕同じじゃないところが出てきてしまうのは、〔どうにかして〕同じようにやろうという気で向かうとき、しかないからだ。

だからコマでもないけれど、観客の反応やその日のコンディションその他もろもろの〔偶然性〕によりかかるわけでもない、ためのリハーサルをいましている。


俳優と演技の関係について話そうとすると、どうしても長くなってしまう。一見堂々巡りのような話になってしまう。なるべくわかりやすく、を意識して、これから話していきたいと思っている。
こういうことをある程度の距離感を持って話すことができるので、やはりプレビューは大きかったのだ(過去形ではないです)。