演出メモ

創作についていろいろ書いてみようと思います。

日本語字幕(11/9)

話がいろんな方向に行ったり来たりで恐縮ですが、今日は日本語字幕について。
今回の公演で、日本語字幕をつける回を設定することにして、トリコ劇場の米内山さんにアドバイザー的な感じで手伝ってもらうことになった。米内山さんは手話上演などについても活動されている方で、今回うちが日本語字幕をやると言ったときに連絡をもらって、いろいろ知らないので聞いて参考にさせてもらっている。
で、その米内山さんによると、少なくとも小劇場において日本語上演の日本語字幕は前例がないのではないか(調べたわけではないので断定ではない) とのことで、もっと売りにできるなと思っているのだが、売りにしようとしてるくらいなので別に妙な慈善行為だというつもりは毛頭ないのだけど、こういうことをいちいち前提として言わないといけない気がするのは、自分の問題なのかもしれないけど、面倒くさい。というか(自分で言い出したけど)どうでもいい。

で、今日まで数日に渡り字幕を出しながら俳優がしゃべり動いてみたのだが、自らの母国語をわざわざ字幕にして出されているというのは妙なもので、考えていた以上に妙で、これは変に欲を出していろいろ遊びだすと、テレビのテロップみたいないやらしさが出るから、そうはしないように気をつけながら(でも少しは遊んでいるんだけど)、それを回避したところでとても妙だった。
なんというか、俳優の身体は現在そこで動いているし、決められているセリフをしかしながら現在しゃべっているというのに、字幕はどこまでもそれを「決められているセリフ」として気色なく俳優に押し付けていた。同時に俳優の存在自体が決められているものとして強調してくるようであった。
実際にわれわれは反復練習をするし、台本があるわけなので、もちろん決められている動作をするのだけど、俳優の唯一の生っぽさであるように思われる「そこでそれをやっていること」を、まるでスタンプで押すように冷たい印象に変換してしまっているのだった。

これはぼくの少ない経験によると、わりと稀なことであったので驚いていると同時に、<大丈夫かな>と心配にもなったのだけど、でももちろん俳優はそこに現在いるわけなので、だんだん力の均衡というか、うまくその字幕の押し付けを「負荷」として頼もしく受け止めながら徐々に現在性(?)を強めていっていたので、<面白いなあ>と思ってしまった。 というわけで字幕付公演もなかなか興味深いです、というしょうもない感じの文章で今回を終えます。


次回は劇場入り後(16日くらい)になります。