演出メモ

創作についていろいろ書いてみようと思います。

言葉の音楽性(10/31)

唐突だけど、今回初めての試みとして現場では、詩の朗読をやっている。

詩の朗読というと、ちょっとなんか抵抗感がある響きなんだけど(と自分が思っている) なんでやっているかというと、去年アルトーの『チェンチ一族』という戯曲をリーディングでやる機会があって、そこで自分は身体的な遊びみたいなことに捉われすぎて、セリフ(=言葉)に対してのアプローチがあまりにも薄かったことを反省していて、
言葉の音楽性、――歌ったりリズムに乗せてしゃべるとかではなくて、言葉そのものが持っている響き(とそれを効果的に発すること)について自覚的にやりたいというのがあるから。

アルトーと今回のあいだには、僕は『昏睡』や『ヘアカットさん』や『リズム三兄妹』の再演やなどをやっているが、 なんか曖昧になってしまっていた感じがあった、
というか鰰が終わってから今回の製作に入るまで少し間があって、それで身体表現のことを考えてきたつもりだったけど、でもその身体から発せられる言葉についてあんまりにもおざなりなんじゃないかと反省した。
しゃべるとき、その言葉の背後に膨大に広がるイメージとか、しゃべるときの身体の状態・その意識、みたいなことを気をつけてやっていたつもりだったけど、肝心の言葉そのものへの関心が薄かったのだ。

で、僕はやっぱり演劇をやっていてそれを舞台表現として選んでいるんだな、というのが鰰をやったあとの実感・再認識で、それでもちろん言葉はなんでもいいとか、戯曲はなんでもいいとか、物語なんていらないとか、そういうふうには思っていないので、言葉についてもっと考えてみようということになったのである。

それでこの9月下旬に、サイファーという詩の朗読バトルみたいな詩人のあつまりに、友人に誘われて行ったのだけど、 それがまったく知らない世界だったので、とても恐る恐る、ちょっと斜め視線で(上にもあるけど自分は「詩の朗読会」という響きへ偏見があると思う)、新作がどう受け取られるんだろうという試しのつもりで、参加してみた。ら、まったく知らないひとたちの前で、ダイレクトに自分の書いた言葉が広がっていくのかわかっていろんな反応や意識が自分に返ってきたということもあって、新鮮だった。これは使えるんじゃないか、と思ったのだ。 (けっこう興味を持ってくれたので単純に気分がよかったというのもある)

なので、リハーサル時に俳優たちに自作の詩を読んでもらって、ああだこうだ言い合っている。
俳優たちは言葉をしゃべる専門家だからこれは聞いていて、とても新鮮にいろんなことが起きている。
たとえば「詩」をよめと急に言われた俳優たちは、それぞれの思い描く「詩」、つまり日常しゃべっていることじゃないことをしゃべろうと努力する。そうするとイメージの連鎖と、同時に言葉の持つ響きについて敏感になろうとするのだ。 これは、セリフをしゃべるときとはおそらくちょっと違う回路で取り組まなければならないので、今後それがけっこう面白く作用していくのではないか、と期待している。

長くなっちゃったので尻すぼみな感じですが終わります。また書きます。